まず歴史に対する私の意見を述べたい。歴史とは過去にあった出来事や、その過程・状況の記録情報だと考える。
歴史を記録するのは人である、ゆえに自身に利益をもたらすよう、事実を歪める可能性は否めない。 与えられた情報を素直に受け止めるだけではなく、自ら疑問を持ち考える力も必要になってくる。昨今の急激に発展した情報化社会では、なおさら必要な力である。
さて、これから私が述べる歴史はウェキペディア等の情報サイトを調査して、まとめた内容になります。史実として伝えているつもりですが、最終的な正否判断は読者に委ねたいと考えています

歴史

石垣島の歴史をインターネット上で検索すると、おおよそ同じ内容の情報が見つかる。

石垣島大浜のオヤケアカハチは、宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとぅいみやー)と尚真(しょう・しん)王の派遣した中山軍100隻の連合軍に破れ、八重山は琉球王府の支配下に(1500年)、与那国島も、1510年、琉球王府の支配下に入る。

1609年に薩摩藩が琉球に侵入後の1637年、琉球王朝が人頭税(にんとうぜい)を導入。
人頭税とは、15歳から50歳までの男女1人1人に対し、容赦なく税を課すものである。
与那国島久部良(くぶら)に残るクブラバリは過酷な人頭税にあえぐ住民が、人減らしに妊婦に岩の割れ目を飛ばせた場所として伝えられています。 (左写真が久部良村の近くにある岩の割れ目だから、久部良割と呼ばれます。深さ約10m、幅2m弱の岩盤の割れ目)

1771年4月24日午前8時ごろ、八重山列島近海で、マグニチュード(M)7.4の地震が起きました。地震による被害は、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約12,000人・家屋流失2000戸以上という惨事になったそうです。

上述した歴史は、学校の授業や地域行事を通して漠然とではあるが、知っていました。
更に知識を深めたいと思い、調査を進めました。すると、興味をそそる情報を発見したのでここに報告します。


明治政府は琉球藩を廃止し、琉球処分する。しかし琉球は、清に朝貢していたこともあり、中国との間に琉球の領有権問題が発生し、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに先島諸島の割譲を提案した。清も一度は応じ、仮調印したが、中国内部からの反対によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなり、先島割譲は免れたそうです。


尖閣諸島は、もとから日本の領土であり、「中国との領有権問題すら存在しない」と日本政府は表明している。しかし、過去を遡ると日本政府は、宮古島を含めた八重山諸島を清国に割譲しようとしたのです。当時の歴史的背景・状況からの選択であり、現代の視点から、過去事象の成否を断言はできない。しかし、これらの情報から日本政府は先島諸島の存在を軽視したのかと、疑問が湧いてくる。


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