御庭(うなー)


中庭広場を「御庭(うなー)」と言います。ここでは、重要な祭事や、中国からの使者を迎える儀式 をはじめとした外交上の儀式などが行われ王国の儀式の会場として使われた。「磚(せん)」という赤と白の2色の瓦が敷きつめ られており、この色違いの列は儀式の時に諸官が位順に並ぶ目印となっていました。中央の道は「浮道(うきみち)」と言われ、国王や冊封使 など限られた人だけが通るをことを許されました。
南殿 南殿・番所 鎖之間 書院・鎖之間

北殿

王府の行政施設として使用していました。 冊封使が到着した際には北殿内で酒や茶を振る舞い、芸能を披露していました。

南殿・番所

右側の平屋が「番所」、左側の2階建てが「南殿」で、建物内部は廊下でつながっています。 「番所」では主に、登城してきた人々の取り次ぎを行いました。「南殿」は行事・催事や祝宴な どさまざまな目的に使用されていましたが、本来は薩摩藩を接待する場として使われていました。

書院・鎖之間庭園

南殿と渡り廊下でつながっていて、書院は国王が日常の執務を行い鎖之間は王子などの控え所であった。


1938年戦災で失われる前の正殿
(ウィキメディア参照)

正殿


尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城と して用いるようになった。建築物内は、3階建てになっていて1階は「下庫理(しちゃぐ い)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場で、2階は「大庫理(うふぐー い)」と呼ばれ、王妃や身分の高い女官が使用した空間でした。3階は、実際に利用は されていませんでした一階と二階の両方に御差床(うさすか)という玉座が設けられ、 二階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額が飾られていた。現在は、三つの扁額 復元され飾られている。

三つ扁額

*実際、掲げられいる扁額の文字は逆です