万国津梁機構講演会から 2012年3月31日

沖縄観光の歩みと 第5次観光振興計画(案)に向けての展望

                 

稲野辺典正

    

皆様こんにちは。只今、紹介いただきました稲野辺典正と申します。仕事は沖縄パシフィックプレスという創刊31周年を迎える、観光を中心にした季刊総合雑誌を編集発行しております。  

万国津梁機構・一般社団法人の仲里嘉彦理事長からお話しがあり、理事をさせていただいております。  「万国津梁機構」は、沖縄県の精神的自立・経済的自立・知的レベルの向上を図るため、県民世論を喚起しながら、国や県に様々な政策を提言し、その実現を図ることを目的としております。今回、定期講演会がスタートし、第1回目を迎えました。    私のテーマは、「沖縄観光の歩み」と「第5次観光振興計画(案)」についてです。宜しくお願い致します。  まず、ここに沖縄県が平成23年10月に発行した「観光要覧」がありますが、これに沿って話を進めさせていただきます。  この資料は、沖縄の本土復帰40年の沖縄観光の足跡をたどり、今日に至る沖縄観光を理解する上で、大変貴重な資料で、分かり易く記述されております。    さて、資料にありますように、本土復帰前の沖縄観光は、1951年(昭和26年)、戦後6年目ですが、観光客数はわずか1万3204人で、その後、1960年(昭和35年)に20,811人、1965年(昭和40年)に64,278人、1967年(昭和42年)に112,117人、1970年(昭和45年)に172,349人、1971年(昭和46年)に203,769人と徐々に増加しております。  しかし、1960年(昭和35年)頃までは、沖縄観光が今日のような産業として発展することは、想像さえ、されていない時期で、当時の沖縄観光の受け入れに中心的な役割を果たしたのが、沖縄ツーリスト初代社長の東良恒氏でした。氏は1997   年(平成9)に月刊「自治新報」でのインタビューで、沖縄観光について次のように語っております。  これは、沖縄の観光史にも載っていない貴重な資料ですので、引用させていただきます。  『私が沖縄ツーリストを創立した時期から、200ドルの外貨を持って、沖縄への旅行が出来るようになりましたが、当時は、全学連等の闘争が華やかな頃で、思想的な人物は米国民政府で厳しくチェックされ、共産党や社会党など左翼運動の思想家等は、ことごとくブラックリストにあげられ、自由に旅行が出来る状態ではありませんでした。北海道から九州までの46都道府県の県庁などの紹介で、私自身が身元保証人となり、一般観光客の受け入れに力を入れて、当時の沖縄観光の受け入れに力を入れて、当時の沖縄観光客の7割から8割は、我が社が取り扱うことになりました。このようなことから、毎日のように米国民政府から呼び出され、この人は大丈夫かといったことを質問されるということが続きました。ある時、農業団体の全信連の団体旅行がありましたが、その当時は全学連の学生運動が盛んな頃でありましたので、全信連が全学連と勘違いされ、鋭く追求されるという場面もありました。  全信連の団体は約2,000名を受け入れ致しましたが、当時、沖縄金融公庫の総裁で、のち世界銀行にいかれた大島出身の宝村さんに呼ばれ、説明したりしたものです。  特に米民政府は、1人の人間がいくつもの名前を持っている事に不信を抱いたようです。私の名前は東良恒(ひがしりょうこう)ですが、「あずま」とも読まれますし、「良恒」は「よしつね」とも読まれますので、私の名前がローマ字にすると、いくつものの呼び方になるわけです。そもそも、人の名前がいくつもあるということに民政府の諜報機関が不信を抱いたわけですが、私は日本語には音読みと訓読みがあります。そのようなことから、いくつもの読まれ方をしているということを説明するということがかなりありました。  したがって、戦後の沖縄観光は、1万人からからスタートし、復帰前の昭和46年(1971年)には20万人を突破することになりましたが、それまでに到達するまでには、並々ならぬ努力を積み重ね、それをベースとして今日の沖縄観光の発展があると言えます』と述べております。  話は前後しますが、本土では1956年(昭和31年)の経済白書に「もはや戦後ではない」と指摘され、本格的な先進工業国への道を歩み始め、余暇を楽しむ余裕が出てきました。その後の高度経済成長期には国内旅行市場では、観光基本法の制定(1963年)、海外旅行の自由化(1964年)、名神高速道路の建設などのインフラ、交通網の整備がなされ、さらに東京オリンピック(1964年)、大阪万博(1970年)といった大イベントの開催により、国内旅行市場は5100万人から1億600万人に成長発展し、国内の旅行市場は大衆化してきました。    しかし、沖縄は日本本土から遠い存在で、本土から沖縄への旅行はパスポートとビザの申請が必要であり、通貨も1958年からドルが使われていて、ドルから円へ、円からドルへの両替が必要でありました。また当時の沖縄への移動手段は海路が中心であり、旅行日数がかかり、沖縄への旅行費用は高価なものでした。  また、当時の沖縄への旅行は、遺族団の戦没者への慰霊、戦跡参拝、ビジネス客、基地内の家族訪問を目的とする米国人が大半を占め、観光を目的とした訪問客は少なかったのです。  この時期、1941年に開業した「沖縄ホテル」は、沖縄の観光振興に重要な役割を果たしました。  これを契機に観光産業の組織化の動きが現れ、1954年に「沖縄観光協会」が設立され、1955年には19軒の「観光協会指定旅館」を決定し、本土のホテルへの視察研修を通して、料理を含む、サービスのあり方についての取り組み等を経て、「那覇市観光ホテル旅館組合」が加盟数22軒で結成されました。    1972年(昭和47年)5月15日の沖縄の本土復帰を契機に、パスポートやビザがいらなくなり、観光客数は同年44万人、翌年の1973年(昭和48年)には74万人、1974年(昭和49年)には80万人、そして1975(昭和50年)には「海・その望ましい未来」をテーマに沖縄国際海洋博覧会が開催されたことにより、155万8000人と右肩上がりに急増していきました。  沖縄国際海洋博覧会の開催は、沖縄観光に対するイメージがアップすると共に、沖縄の新しい産業として発展する可能性が大きく膨らむことになり、その意義は大きなものがありました。    では、沖縄国際海洋博覧会はどのような目的で開催されるようになったのか、その経緯については、副知事をつとめた宮城宏光氏の著書「私の歩んだ道」から引用することにします。  『政府は1970年、沖縄の祖国復帰を記念して、復帰記念植樹祭、沖縄特別国民体育大会(若夏国体)、沖縄国際海洋博覧会を3大事業として、沖縄の立ち遅れた社会基盤の整備を図ることになった。  琉球政府は、1970年2月18日の局長会議で、海洋博の誘致を決定したが、琉球政府が海洋博開催を正式に文書で要請したのは、半年後の1970年8月中旬である。  1971年10月22日の閣議で海洋博沖縄開催が了解され、全県30前後の候補地が名乗りを挙げたが、それから本部、読谷(残波岬)、糸満(名城ビーチ喜屋武)、座間味、宮古、八重山の6地区にしぼられた。  「この中から最適値を選ばなければならない」と琉球政府の海洋博準備室は事前に各地を調査。景観、海の透明度、地域開発に及ぼす影響、輸送、宿泊施設など、あらゆる角度から検討したが、1971年12月30日、20人による会場選定委員会を設置して検討が重ねられた。  会場選定委員会は、1972年早々から候補に挙がった各地を3班に分けて視察した後、同年1月22日の第3回委員会で「本会場は沖縄本島北部の本部とする。本島中南部や慶良間、久米島、宮古、八重山の各地の特色を生かした海洋博関連施設を設ける」との答申を内定。  2月18日に屋良朝苗主席に答申がなされ、本部が海洋博本会場に決定したのである。  海洋博の本部への誘致については、本部町出身の稲嶺一郎参議院議員ををはじめ、同じく同町出身の宮里松正琉球政府行政副主席など熱心な誘致運動もあったが、さらには沖縄振興開発計画を着実に進める上でも、本部に会場を選定したことは、後で述べるように高く評価される。  国際条約に基づく海洋博覧会を都市部ではなく、遠く離れた本部半島で開催する事により、国道58号の拡幅工事や、沖縄自動車道を新設し、沖縄県の立ち遅れた社会資本の整備を促進することによって、本土との格差を是正し、自立的発展の基礎条件を整備する、いわゆる沖縄振興開発特別措置法の精神を踏まえた施策の展開に結び付けることであったといえる。  しかし、沖縄県の祖国復帰に伴い、本土ブローカーなどの資本が、沖縄本島をはじめ、宮古、八重山など全県下での土地買い占めが活発化したことなどから、県内の労働組合や民主団体を中心とした海洋博への反対運動が展開されるなど、海洋博に対する盛り上がりに欠ける状態が続いた』。  当時のこと(海洋博前後)は、私も1970年9月1日から沖縄に在住しておりますので、このことはマスコミ報道を通じ、はっきり覚えております。  さて『復帰翌年の1973年秋の第1次オイルショックにより、トイレットペーパーまでが品切れするなど、狂乱物価が惹起したことから、政府は総需要抑制政策を打ち出す中で、海洋博開催に向けた本会場の建設をはじめ、国道58号の拡幅工事、名護市許田から石川までの沖縄自動車道などの工事が進められる中で、極地インフレに陥る恐れがあるということもあり、加藤泰守沖縄開発庁事務次官を団長とする調査団による現地調査が実施され、海洋博開催を延期すべきとの意見もあったが、当初予定していた時期より若干遅れて、結局1975年(昭和50)7月20日の海の記念日に開幕、1976年1月18日までの6ヶ月間で、開催することが決まった』と記しております。  なお、沖縄の主要ホテルである沖縄グランドキャッスルは1973年 沖縄都ホテルは1974年、沖縄ハーバビューホテルおよび、本島西海岸のホテルムーンビーチは海洋博が開催された1975年にオープンしました。  このような沖縄観光の発展の大きな要因は、沖縄振興開発特別措置法に基づく、第1次沖縄振興開発計画(1972年度から1981年度の10カ年)によるものであり、第9章で「余暇生活の充実と観光の開発」が掲げられ、観光が沖縄県の主要産業と位置づけられ、名護の許田と石川間を結ぶ沖縄自動車道をはじめ、インフラの整備がなされました。  しかし、海洋博前後の沖縄観光には過剰投資があり、観光客数500万人との予想もあり、多くのホテルが建設され、宿泊施設数は約2.7倍、客室数は約3倍となりました。しかし海洋博後の1976年(昭和51年)は観光客数83万人と激減し、その落ち込みは大きく、海洋博ショックという、企業の倒産など、経済、社会問題が発生しました。  こういう状況に対して、観光および関連産業は観光客数の回復を図るため、青い海、輝く太陽、サンゴ礁などの「南国イメージ」形成を行い、航空会社は輸送力に併せた旅行業の進出に伴う沖縄への観光開発や団体包括旅行用「GIT(Group Inclusive Tour)」の沖縄線導入により沖縄キャンペーンを開始しました。  また、沖縄県も修学旅行やコンベンションの誘致を展開、さらに「沖縄県ホテル旅館生活衛生同業組合」をはじめ、多くの観光関連団体が「沖縄観光宣伝隊」を本土に派遣し、全国唯一の「亜熱帯リゾート沖縄」をアピールしました。  このような、沖縄観光のイメージ形成により、1977年(昭和52年)には、観光客数も120万人にまで回復しました。    次の1980年代の沖縄観光は、第2次オイルショック(1979年)や円高不況(1983年から1987年)の影響を受けながらも、緩やかに観光客数が増加した時期です。また、1987年に施行された総合保養地域整備法によるリゾートブームがあり、1989年には観光客数は267万人に増加し、観光は「沖縄のリーディング産業」に成長し始めました。  またこの時期、プロ野球の沖縄キャンプが始まり、沖縄花のカーニバルのイベントがスタートしました。時期は前後しますが1979年に八重山の「はいむるぶし」が、1983年に「万座ビーチリゾートホテル」が、1984年に「宮古島東急ホテル」が、1988年に「サンマリーナホテル」、「かりゆしビーチリゾートホテル」、「ラマダルネッサンスリゾートオキナワ」、「残波ロイヤルホテル」が相次いでオープンしました。  また、1986年には沖縄県観光振興基本計画(第2次)が策定され、また国際観光モデル地区にも指定されました。1987年に沖縄コンベンションセンター展示棟がオープンしました。     1990年代は1993年(平成3年)にバブル景気が崩壊し、平成不況の中、航空運賃の自由化や旅行商品の低価格化が進展し、より観光客が増加しました。  1991年(平成4年)には観光客数300万人、1998年には400万人を達成しました。  また1990年(平成2年)にはリゾート沖縄マスタープランが策定され、さらに沖縄コンベンションセンター劇場棟もオープンし、第1回世界のウチナーンチュ大会も開催されました。1991年には沖縄トロピカルリゾート構想も承認され,1992年には沖縄観光振興計画(第3次)が策定されました。また同年には首里城公園が開園し、「ラグナガーデンホテル」がオープン、NHKの大河ドラマ「琉球の風」も放映されました。  名実共に、「観光は沖縄のリーディング産業」となり、国内トップの観光リゾート地として成長発展を遂げました。  1995年には「沖縄県観光振興基本計画中期行動計画」が策定され、「美ら島おきなわ観光宣言」も発表され、さらに第2回世界のウチナーンチュ大会も開催され、「かりゆしアーバンリゾート那覇」もオープンしました。  1996年には沖縄の観光3団体が統合し、(財)沖縄観光コンベンションビューローが設立されました。  1997年には「カヌチャベイホテル」、「ザ・ブセナテラスビーチリゾート」がオープン、1998年には沖縄出身者のアーティストの躍進があり、1999年には沖縄特定免税店(那覇空港内)がオープン。  2000年には万国津梁館が完成し、クリントン米大統領ら世界の首脳が参加した「九州・沖縄サミット首脳会合」が開かれました。また「琉球王国グスクおよび関連遺産群」の世界遺産登録もなされました。2001年にはNHK朝の連続テレビ小説に「ちゅらさん」が放映され、沖縄への注目度が急上昇しました。しかし同年9.11米国同時多発テロの発生で、修学旅行を中心としたキャンセルが相次ぎ、県経済に大きな打撃を与えました。  2002年、旅行商品の低価格化問題が発生しました。同年、第4次「沖縄県観光振興基本計画」、「第4次沖縄県観光振興計画」が策定され、また同年には「沖縄美ら海水族館」もリニューアルオープンしました。2003年、SARS問題、イラク戦争の勃発がありましたが、観光客数は大台の500万人を達成しました。また同年には沖縄都市モノレール「ゆいレール」が開通しました。2004年には「国立劇場おきなわ」、2005年には空港外免税店「DFSギャラリア・沖縄」がオープンしました。また同年、第46回米州開発銀行年次総会(IDB)が開かれ、リゾートウエディングも挙式組数国内一になりました。   2007年には本土復帰後の累計入域観光客数が1億人を突破しました。またこちらの「沖縄県立博物館・美術館」が開館し、「ビジットおきなわ」の作成も開始され、沖縄観光バリアフリー宣言もなされました。北部の「喜瀬別邸」もオープンしました。さらに「観光タクシー乗務員資格認定制度」もスタートし、「沖縄県地域限定通訳案内士試験」も開始されました。  2008年には「沖縄県観光まちづくり指針」が作成され、また観光客数604万5000人を達成しました。  2009年には中国人観光客への個人ビザが解禁され、那覇港泊埠頭地区に県内初の大型旅客船バースが完成、またJC(日本青年会議所)の全国大会も沖縄で開かれました。  2010年には県内で35年ぶりになるプロ野球の公式戦が行われ、中国人観光客への個人ビザ発給条件の緩和がなされ、2011年に数字ビザの発給が開始されました。また「美ら島沖縄総体2010」が開催され、2011年3月11日は東日本大震災が発生し、日本全体が経済や産業、観光等の大きな打撃の中、沖縄の観光や経済は現在、1年を迎え、持ち直ししようとしております。以上が復帰後の沖縄観光の足跡、歩みであります。  さて、復帰後の沖縄観光を振り返りますと、当初、第一次沖縄振興開発計画では、観光については、県は工業立県を目指し、重視されていませんでしたが、海洋博開催を通じ、観光産業の大きさ、航空をはじめとするバスやタクシー等の交通やホテル・旅館等の宿泊業、そしてそれらの総合産業としての波及効果の大きさが認識されるようになり、観光産業が沖縄のリーディング産業として、以後、重視されるようになり、観光振興計画が立案、策定され、発展してきました。     現在、沖縄観光は、団体旅行型からフリープラン型パック旅行、個人型旅行が増え、リピーター(2007年から70%)が増加しました。旅行形態も周遊型から滞在型に変化しており、交通手段も観光バスやタクシーからレンタカー利用(夏期は70%以上、平均50%)が多くなりました。  また宿泊施設も宿泊特化型ホテルも増え、中南部の都市型ホテルや恩納村西海岸リゾートホテル志向などと共に、ニーズが多様化しております。   また国内の航空路線は東京、大阪、福岡の幹線空港から地方空港に路線が拡充され、観光客数が増加してきました。また台湾や韓国、中国などの海外の航空路線が開設され、2009年には外国人観光客数は約28万人に伸びております。    観光客の旅行目的は観光地めぐりを基本に、美しいビーチや海、沖縄料理、ショッピング、保養・休養、海水浴、マリンレジャーなどが人気で、近年は保養・休養が増加傾向にあり、県は国際水準のリゾート地を目指しております。  また沖縄はリゾートウエディングエリアとして国内で高い注目を集め、2009年には8,189組が挙式し、18万人が来県しました。修学旅行は2,562校、438,194人で、シーズンオフ期のボトムアップに貢献しております。さらに最近、スカイマークの東京ー沖縄(11,000円)や那覇ー宮古路線(2,700円) の参入による、LCC(格安航空会社)も就航し、気軽に沖縄旅行を楽しめる時代になって来ております。  沖縄観光の観光収入は2009年は4033億円、観光客1人当たり消費額は7万536円、平均宿泊日数は2006年は2泊3日が41.3%、3泊 4日が29.3%となっております。    なお、2011年の観光客数は560万人(見込み)で、今年2012年は620万人と、2008年の604万5000人を上回る、復帰後、最高の目標を掲げておりますが、この目標達成には、世界的な景気悪化、円高不況、旅行需要・旅行マインドの低下などの影響を受ける事も予想されることから、大変厳しいとの見方が多いようです。しかし、官民一体となって、思い切った観光施策を積極的に進めると共に、観光客に対する『癒し』と「やすらぎ」の環境を一層充実させ、「温かい思いやりの精神」で、観光客をもてなす県民世論を喚起させるといった、ソフト面でのサービスをより充実させていくことが肝要と思います。     今後は、「第5次沖縄県観光振興基本計画(案)(2012年度から2021年度)」にありますように、沖縄観光は国際水準のリゾート地を目指し付加価値の高い観光や、さらに気軽に楽しめる観光を目指し、規制緩和や地域発のソフト、旅行商品の開発、人材の育成、観光資源である自然の継承、離島観光の活性化などを具体化しながら、1,000万人観光客数(うち外国人観光客200万人)、観光客1人当たりの消費額10万円、平均滞在日数4.78日、観光収入1兆円を目指しております。その実現の是非はいろいろ論議がありますが、沖縄観光は長い目で、「観国之光」をより確かに見ることが出来ると思います。     以上本日は、「沖縄観光の歩みと第5次観光振興計画(案)に向けての展望」と題し、その概要を話させていただきました。ご清聴ありがとうございました。    なお、この講演の原稿を作成するに当たり、学文社の「現代観光総論」(前田勇著)や放送大学の教材「観光の新しい潮流と地域」(原田順子、十和田朗共著)、沖縄県の「観光要覧」(平成22年度版)、沖縄振興開発計画、沖縄県観光振興計画、宮城博文氏の「沖縄県ホテル業の発展と現状」、沖縄観光速報社・渡久地明編集長の「観光ニュース」、春夏秋冬社の宮城宏光著「私の選んだ道」、一般社団法人 沖縄観光の未来を考える会の「アクションプラン2020」、仲里嘉彦・「自治新報」春夏秋冬社社長のアドバイス等を参考にさせていただきました。深く感謝申し上げます。