戦国の巨獣、武田 信玄その生き様に学ぶ

仕切り
枠線上赤
信玄肖像

西上作戦

永禄4年の川中島合戦を契機に方針を転換し、それまで同盟国であった駿河国の今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。 また、桶狭間の戦いにおいて今川氏当主の義元が尾張国の織田信長に討ち取られると、今川氏に臣従していた三河国の松平元康 (徳川家康)は三河において織田氏と同盟関係を結び独立した。 駿河侵攻により武田氏は駿河において三河の徳川氏や今川氏の同盟国であった相模国の北条氏に挟撃される形となる。 やがて武田氏は北条氏を退けて今川領国を確保し、徳川領国である三河・遠江方面への侵攻を開始する。 武田氏の侵攻に対して徳川氏は同盟関係にある織田氏の後援を受け、東海地域においては武田氏と織田・徳川勢の対決が推移する。 元亀元年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し(第一次信長包囲網)、 それに応える形で信玄は翌元亀2年に徳川領国である遠江国・三河国に大規模な侵攻を行う(ただし、武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、当初織田氏は徳川氏に援軍を送らなかった)。 同年末には北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に西上作戦を開始する

枠線下赤
  • 西上作戦
      枠線上青
    • 西上作戦

      合戦図

      武田軍は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国に同時侵攻を行う。 山県昌景軍5,000人。信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。 秋山信友軍5,000人。山県隊とほぼ同時に居城・高遠城より東美濃に侵攻、織田氏の主要拠点・岩村城を包囲(事実上の織田氏との同盟破棄)。 武田信玄率いる本隊2万2,000人(うち北条氏の援軍2,000人)。甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。 総計3万人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力であり、まさに総力戦であった。この侵攻は武田軍の強さを証明するかのように凄まじく、本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、1つあたり平均3日で次々と落としていった。一方の徳川氏 の最大動員兵力は1万5,000人に過ぎず、さらに盟友の織田氏は信長包囲網による近畿各地の反乱鎮圧に追われ、支援すらできず、結果として 徳川氏に援軍を送れるようになるのは12月になってからだった。そのような事情もあって、武田軍の機動力や三路からの同時侵攻の前には成す術も無かった。

    • 枠線下青
  • 三方ヶ原の戦い
      枠線上青
    • 三方ヶ原の戦い

      合戦図

      二俣城落城の少し前に徳川軍は佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀・林秀貞・水野信元ら織田軍3,000人の支援を受け兵力が1万1,000人となっていたが、依然兵力差は大きいため、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると見越して篭城戦に備える。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を出発して遠州平野内を西に進軍する。しかし、浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を目的地とし、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていた。 これを知った家康は一部家臣の反対を押し切り、籠城策を取り止め三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から攻撃することを決定し、浜松城から打って出た。同日夕刻に、三方ヶ原台地に到着するが、武田軍の後方を取るどころか相手は魚鱗の陣を敷いて待ち構えていた。対する徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まる。しかし、武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けた徳川軍は敗走する。

    • 枠線下青
  • 家康敗走!
      枠線上青
    • 家康敗走!

      家康しかみ顔

      徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この時の家康は恐怖のあまり脱糞したとも伝えられ、人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして、有名な顰像(#顰像(しかみ像))を描かせると、湯漬けを食べてそのまま鼾を掻いて眠り込んだと言われる。 一方、浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することなく、そのまま引き上げる。同夜、一矢報いようと考えた家康は、浜松城の北方約1キロ付近に野営中の武田軍を夜襲させる(犀ヶ崖の戦い)。この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、徳川軍が崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなど、多数の死傷者を出したという。 ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出である。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。

    • 枠線下青
  • その後1
      枠線上青
    • その後2

      合戦図

      信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)など持病が悪化し、 武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。 4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53。
      辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

    • 枠線下青
  • その後2
      枠線上青
    • その後2

      合戦図

      武田家は勝頼の代で滅亡しているが武田家の遺臣は徳川氏によって保護され、武田遺臣のなかには幕府に仕えて活躍したものもいる。 徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として、また信玄の手法を家康が参考にしたことから、 「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。 江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立し、これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法や甲州金、甲州桝の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。

    • 枠線下青
no photo
no photo no photo no photo
no photo