西上作戦
永禄4年の川中島合戦を契機に方針を転換し、それまで同盟国であった駿河国の今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。 また、桶狭間の戦いにおいて今川氏当主の義元が尾張国の織田信長に討ち取られると、今川氏に臣従していた三河国の松平元康 (徳川家康)は三河において織田氏と同盟関係を結び独立した。 駿河侵攻により武田氏は駿河において三河の徳川氏や今川氏の同盟国であった相模国の北条氏に挟撃される形となる。 やがて武田氏は北条氏を退けて今川領国を確保し、徳川領国である三河・遠江方面への侵攻を開始する。 武田氏の侵攻に対して徳川氏は同盟関係にある織田氏の後援を受け、東海地域においては武田氏と織田・徳川勢の対決が推移する。 元亀元年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し(第一次信長包囲網)、 それに応える形で信玄は翌元亀2年に徳川領国である遠江国・三河国に大規模な侵攻を行う(ただし、武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、当初織田氏は徳川氏に援軍を送らなかった)。 同年末には北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に西上作戦を開始する