戦国の巨獣、武田 信玄その生き様に学ぶ

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川中島の戦い(概要)

千曲川

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の 戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。 最大の激戦となった第4次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊) を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。今回は大四次川中島の戦いを見ていきます。
 1.第一次合戦:天文22年(1553年)
 2.第二次合戦:天文24年(1555年)
 3.第三次合戦:弘治3年(1557年)
 4.第四次合戦:永禄4年(1561年)
 5.第五次合戦:永禄7年(1564年)

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  • 第四次川中島1
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    • 第四次川中島の戦い1

      合戦図

      上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り善光寺平南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。 信玄は、24日に兵2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には善光寺平南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。謙信はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻める事もでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻める事は無かった。攻めなかった理由は、政虎の「義」という志が背景にあったのか、あるいは城攻めが苦手だったからなのかはわからないが、どちらにしろ、この海津城の存在が戦場で大きな意味を持つことになる。

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  • 第四次川中島2
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    • 第四次川中島の戦い2

      合戦図

      更に睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、 山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。 この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、 別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、 「啄木鳥戦法」と名づけられた。 9月9日(ユリウス暦では561年10月17日現在のグレゴリオ暦では1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、 信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、 夜陰に乗じて密かに妻女山を下り千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。 政虎は、甘粕景持に兵1000を与えて渡河地点に配置し武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に八幡原に布陣した。

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  • 第四次川中島3
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    • 第四次川中島の戦い3

      合戦図

      10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とした。 政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、次々攻撃する陣形)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形) を敷いて応戦したものの、信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど、劣勢であった。 乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた政虎は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、 信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらした。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、 政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。

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  • 第四次川中島4
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    • 第四次川中島の戦い4

      合戦図

      信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、あまりにも出来すぎているため、創作と考えられることが多い。 ただし、乱戦かつ上杉軍が攻めなければならない状況や、謙信の性格を考慮すれば、絶対に無かったとまでは言い切れないものがある。 また、盟友関係にあった関白・近衛前久に宛てて、合戦後に政虎が送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。 政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。 武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着した。 予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。 形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に退き、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。 上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げた。

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  • 第四次川中島5
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    • 第四次川中島の戦い5

      合戦図

      この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した激戦となった。 信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。 『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張している。 ただ、武田軍は最高幹部級の副将武田信繁・諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいない (上杉軍では荒川長実・志田義時などが討ち取られている。)ため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もある。 特に副将信繁の戦死は武田方のその後に影を落とした。しかし上杉側の被害も甚大であり、直後の関東出兵では後北条勢を相手に思うような戦いが出来ずに苦戦をした。 いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。 この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。信玄側にも2通の感状が確認されているが、 柴辻俊六を始め主な研究者は、文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。

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